ファッションデザイナー森川拓野さんインタビュー(TAAKK )

森川拓野(TAAKK)
1982年、神奈川県生まれ、秋田育ち。文化服装学院卒業後、株式会社イッセイミヤケに入社。「ISSEY MIYAKE」「ISSEY MIYAKE MEN」でパリコレの企画デザイン担当などを経て2012年に独立し、自身のブランド「TAAKK(ターク)」を立ち上げる。
2013年「Tokyo新人デザイナーファッション大賞プロ部門」に入賞。2019年「TOKYO FASHION AWARD」「FASHION PRIZE OF TOKYO」といった国内の名だたる賞を続けて受賞。さらに2021年 世界中のデザイナーの憧れ「LVMH PRIZE 2021」セミファイナリストに選ばれる。
公式HP: https://taakk.jp/

--- 森川さんは、どのような少年だったんですか?

サッカー少年でした。
小3の時、神奈川から秋田に引っ越して、隣の家のお兄さんがサッカークラブに誘ってくれて、それがきっかけで中学校までサッカーを続けて、県選抜の候補に選ばれるほど頑張ってやってましたね。でもある時、サッカーでの自分に限界を感じてあっさりやめましたけど。

母はニット製作を仕事にしていて、自分にも服をたくさん作ってくれました。

父は、機械や溶接ロボットなどを開発するエンジニアで、四六時中、顕微鏡を見て開発に没頭しているような人でした。

---「ものづくり」が身近な環境で育ったんですね。ファッションに興味を持つようになったのはどのようなキッカケですか?

中学のサッカー部ってわりとチャラい感じで、練習のユニホームとかソックスとスニーカーとか、オシャレには気を使っていました。単純に女子にもてたいと。友達とよく古着屋にいっていましたね。ナイキのエアマックスとか流行っていた時代でした。姉が持ってたファッション雑誌とかもよく見ていましたよ。

高校で何かつくりたいと思い始めて、最初は簡単なバックを作ったりしていました。作り方を母に教えてもらって、見よう見まねで、少しづつシャツとか、ブルゾンとか作るようになって、それを友達にプレゼントして喜んでもらって。それが楽しかったですね。

---文化服装学院ではどのようなコンセプトや目的で学ばれていたのでしょうか?

目的をもって、やれてたのかって?自分には、当時そんな、コンセプトもへったくれもなくて、服の作り方の基礎もそこで初めてちゃんと学ぶ感じで、とにかく、ついていくだけで必死。周りには「デザイナーになりたい!」っていう強い意思の同級生がたくさんいて、刺激を受けましたね。優秀な年代でしたし。本当に、ついていくのがやっとでした。

---イッセイミヤケでのお仕事はいかがでしたか?

イッセイの時はPLEATS PLEASE ISSEY MIYAKEを担当して、それからme ISSEY MIYAKEを経験して、ミッドタウンにある21_21 DESIGN SIGHTのイッセイさんの企画展のスタッフになったり。その後イッセイミヤケのメインコレクションの企画チームに入って数年した後、「イッセイミヤケ」「イッセイミヤケ メン」の企画デザインなどを担当する貴重な機会を得ました。ここで、レディース、メンズの企画からデザインなど、すべての工程に携わることができました。

---TAAKKというブランド名に込めた想いは?

色々意味を付けて、カッコイイことばっかり言うやつに思われたくなかった。シンプルに僕の名前が「タクヤ」なんで、いつの年代になっても、素のままでいられるブランド名をつけた。それが「TAAKK」です。

---独立した当初のビジョンはありましたか?

明確なビジョンなどはありませんでした。なんとか生き残るということでだけ考えいましたから、「10年後 こうなりたい」なんてことは到底描けなかった。とにかく全力でした。その時、その時に出た結果に応じて、新しい未来が拓けていった感じですね。

ブランドの立ち上げ当初、実は、自分の作品をどうやって発表するかの流れもよくわかってなくて、当時、「ドラフト!」っていう神戸の若手クリエーターを育てる目的のイベントを紹介してもらって、縁もゆかりもないのに、応募したんです。でも、イッセイで修行した実力があったから、他県なのに、勝ってしまうんですよ。その時、ビームスの契約が決まって、運が良かったです。自分は要所要所で運がいいんです。

外から見たら、自分は、イッセイを卒業して順風満帆で独立して、一見うまく行っているように見えるかもしれないけど、白鳥と一緒で見えない所では必死にもがいていました。死ぬかと思うこともありました。お金を稼ぐだめに、土方のバイトをしたり、薬を飲むバイトをしたり。いろいろやってお金を貯めて、死にものぐるいになって必死でサンプルを作って個展を開いても、蓋を開けたら「バイヤーさんが一人も来なかった!」なんてことも、、世の中は甘くないと・・・身を持って痛感しました。何で、30代にもなってこんな苦しいんだ・・・本当に惨めな思いをしました。今では、笑って話せますけど・・・。

--- 経歴だけ見ると華々しく見えますが、大変なご苦労があったのですね。

今まで、自分自身に「秀でた才能がある」という感覚をもったことはないです。むしろ、気分的にはいつでも「下ッパ」です。パリに行ったら自分のことなんて誰も知らないし。他人を見て「自分よりすごい」と思うことのほうが多くて、そのたびに、勝ちたい!って思います。

今までも、全てのシチュエーションにおいて、決して一番ではなかった。ただ、自分に才能があるとしたら「ひとつのことを本気でずっとやり続けられる」ことだと思います。

ただただ、「勝ちたい」「いい服作って評価されたい」「ビジネスとして成立させたい」「周りの工場に還元したい」もっともっと、「世界に挑戦していきたい」それを「本気でやっている」だけです。

--- 推進力がすごいです。継続は力なりですね。ところで、森川さんとマテリアルセンターとの出会いを教えてください。

自分の知り合いが、ニューヨークのシュプリームというブランドを日本に持ってきた人で、その方が(尾州産地)の出身で、その方に、連れてきてもらったのが最初です。それからはここには毎シーズン訪問しています。

--- マテリアルセンターの魅力はどんなところですか?

服をつくる上でファブリックはとても重要ですからね。自分が面白い何かをつくれるキッカケになったり、その要素を求めたり。岩田さんには、機屋さんの工程を詳しく聞けるし。機屋さんとも直接しゃべれるし。やっぱり、これだけの量を展示している資料館は日本中探してもなかなかないので、それはとても素敵なことですよね。ここはデザイナーだったら絶対来るべき場所ですね。でも僕としては、あんまり来ないでほしいですけど(笑)

--- 森川さんから、若手デザイナーにメッセージはありますか?

デザイナーになるってことは、自分と同じ土俵に立つことになる、つまりライバルになるので、言ってあげられることは何もないですよ。なりたかったら、なればいい。言い方は厳しいですけど。そういう世界です。

デザイナーと言っても「企業デザイナー」と「独立系デザイナー」と 2つあって、特に独立系を目指すなら、戦う武器がなくては、戦い続けるのはとても大変だよ。今、ネットを見ればいくらでもデザインを見られる時代だから、自分自身でクリエイトできるような武器がないと本当に大変ですよ。わざわざ独立してまでやる目的をしっかりと持たないと。自分自身も本当に死ぬ思いをしましたから。


--- 今後の森川さんについて教えてください。

今後も、パリコレを続けたい。ミラノでもなく、東京でもなく。やっぱりパリコレ。パリコレのオンスケジュールのショー枠での発表できることは誇らしい。
自分が戦うべきすごい場所だと思う。ここではいろんな人との出会いがあります。

「人と出会うことが自分を変えるターニングポイント」になる。
ちゃんと自分らしいことができていれば、何かが変わる。

それで、自分の想像をはるかに超える何かに変わり、何かが生まれるきっかけになる。その時にどんな未来が見えるかワクワクする。もちろん、お金もついてくるだろうし、選択肢が増えてくるだろうし。その上で新しい考えができる。理想はTAAKKというブランド名がなくても、僕の服だとわかってもらえるオリジナリティーの高いものをつくりつづけたい。

会社を大きくしようとは思っていません。小さなチームでも誠実な自分を貫きながら、世界への間口を広げたい。そして世界中のたくさんの人に着てほしい。それが結果、ビジネスになればいいなぁと思っています。

ありがとうございました!今後も森川さんのご活躍を応援しています!