デザイナー大野陽平さん インタビュー(YOHEI OHNO )

大野 陽平(YOHEI OHNO )
愛知県小牧市出身
早稲田大学 文学部中退 ・文化服装学院 入学 ・文化ファッション大学院大学(BFGU)進学 ・神戸ファッションコンテストでグランプリ受賞 > イギリスへ留学 ・27歳で帰国後、自身のブランド「YOHEI OHNO」を立ち上げる。https://yoheiohno-shop.com/
業界の第一線で独創的なコレクションを発表し続け、ブランド設立10周年を迎えたファッションデザイナー、大野陽平(YOHEI OHNO)。映画の衣装や大阪・関西万博のパビリオンユニフォーム、独創的なプロダクトを手掛けるなど、その活躍の場は衣服の枠を超えて広がり続けています。
一見、順風満帆に見えるそのキャリアですが、お話を伺うと返ってきたのは「僕は手先が不器用で、最初の頃は服作りが楽しいなんて一度も思わなかった」という意外な言葉でした。
コンプレックスから始まった学生時代、ブランド存続の危機を救った「マテリアルセンター」、そして今後の展開についてお話していただきました。
――ファッションの道へ進んだきっかけを教えてください。
高校生の頃、『哲学を教えている先生がかっこいい』という純粋な憧れから、哲学を深く学ぶために大学の文学部へ進学しました。しかし、実際に入ってみると、自分が思い描いていたものとはどこか違っていて、学術的でアカデミックな世界に少し距離を感じるようになってしまったんです。
そんな葛藤を抱えていた大学時代、たまたまモードファッションのコレクションを目にしたり、ロンドンの若手デザイナーのインタビュー記事を読んだりする機会がありました。驚いたことに、そのデザイナーが語る言葉は、大学の教授たちの講義よりも、当時の僕にとってはるかに奥深く、魅力的に響いた。そこから『ファッションデザイナーが考えていることって、実はすごく哲学的なんじゃないか』と、強烈な衝撃を受けました。
思えば、僕のファッションへの興味の原点は、高校時代にあります。地元の愛知の田舎から都会の高校に進学した際、周りのおしゃれな同級生たちに圧倒され、強いコンプレックスを抱いたのが始まりでした。その『コンプレックス』と、大学で出会った『デザイナーの哲学への憧れ』がカチッと重なり、大学2年の時に中退して文化服装学院へ飛び込む決意をしました。
――早稲田大学を中退して全く別の道へ進むことに対し、ご両親の反対はなかったのですか?
母は驚いていましたが、実は、父が誰よりも強く理解して背中を押してくれたんです。 父は若い頃、本当は美大に行って芸術家になりたかったそうです。でも、親から『芸術家は食えないから公務員になれ』と猛反対され、夢を諦めて美術の教員になりました。父の中には『本当は芸術家になりたかった』というコンプレックスがずっとあったみたいで。 だからこそ僕が『ファッションの道に行きたい』と相談した時、『自分と同じ思い(後悔)はさせたくない。お前の好きな道を行け』と、大学を中退することを許してくれました。あの時の父の理解がなければ、今の僕はいないと思います。
――なんと理解のあるお父さん!転入した文化服装学院いかがでしたか?
本当に大変でした(笑)。僕は元々手先があまり器用ではなくて、ミシンで縫うのも得意じゃなかった。周りは綺麗に服を作れる人ばかりで成績も良くなくて、最初の2年間は自分が作るものに納得がいかず、「自分には向いていない」としか思えませんでした。
――ご家族の温かい後押しもあって飛び込んだファッションの世界ですが、最初は苦労されたのですね。そこから手応えを感じ始めたのには、何か特別なきっかけがあったのでしょうか??
実は、きっかけはすごく消去法的なものだったんです(笑)。2年生の修了制作の時、メンズ服を専攻すると上下のスーツを作らなきゃいけなかった。でも不器用な僕のペースじゃ課題の提出に絶対に間に合わない。見かねた担任の先生が、「レディスのワンピースなら簡単だから、とりあえず作ってみて」と。
その時、初めて女性のワンピースを作ったんです。そうしたら、それが思いがけず、すごく評価されたのです。自分の作ったデザインを認めてもらえたことで、ようやくそこで、初めて「服作りってちょっと楽しいかも」と思えました。
もし僕が最初から器用で、仕様書通りに綺麗にサンプルが仕上がるような、簡単なモノづくりからスタートしていたら、逆に飽きてすぐやめていたかもしれません。「モノを作るということは、こんなにも大変で、難しくて、思い通りにいかないものなんだ」と最初に骨身に染みて学べたことが、僕のデザイナーとしての大きなベースになっています。

――その後、さらに高いレベルを求めて文化ファッション大学院大学(BFGU)へ進学しされた理由は?
一番の理由は、『自分のデザイナーとしての骨格を、体系的に作りたかったから』です。
文化服装学院で服作りの基礎を学びましたが、もっと深いところまでデザインを学問的・体系的に深めたいという欲求が強くなっていました。ただ作るだけでなく、デザインの背後にある理論やロジック、概念を整理し、デザイナーとして自分の考えを言語化できる力を身につけたかったんです。
もう一つの理由は、圧倒的な『環境』への憧れでしたね。当時、文化ファッション大学院大学の卒業コレクションを拝見したのですが、そのレベルの高さに圧倒されて。『ここに行けば、もっとすごい自分になれるんじゃないか』という直感がありました。
それに、僕は手先が不器用というコンプレックスがあったので、感覚だけに頼るのではなく、素材研究やコンセプト設計を徹底的に深めて、『なぜこのデザインなのか』を論理的に説明できる力を養いたかったんです。
――大学院大学(BFGU)在学中の大きな転機として、「神戸ファッションコンテスト」での受賞がありますが、どのような経緯だったのでしょうか?
大学院時代は、とにかくコレクション制作に没頭していました。BFGUは、1年次に10体、2年次に15体という、世界的に見てもかなり厳しいノルマがある環境でして。そんな中で、自分のデザイナーとしての哲学を確立しようともがいていた時期でした。
当時、海外留学を目的とした『神戸ファッションコンテスト』という、非常に名誉ある登竜門があって、僕はそこでの受賞を強く目指していました。就職活動もせず、『ここで留学の権利を勝ち取る』ことだけに集中していたんです。今思えば根拠のない自信というか、『選ばれるだろう』という確信みたいなものはありましたね。
――当時の作品テーマや、審査員からの評価については覚えていますか?
作品のテーマは『Arte Povera(アルテ・ポーヴェラ)』です。イタリア語で『貧しい芸術』を意味するこの言葉を掲げ、あえてネオプレーン(ウェットスーツ素材)やビニールといった、当時のファッション界ではラグジュアリーウェアには不向きとされていた工業用素材をメインに構成しました。
既存の素材概念を覆すアプローチと、彫刻的で近未来的なシルエットは、多くの方から『素材の扱い方』において独創性を高く評価していただきました。
この受賞で、イギリスのノッティンガム芸術大学(Nottingham Trent University)への留学資格を獲得できたことは、その後の僕のキャリアにとって間違いなく大きな転換点になりました。
――留学で学んだことはなんですか?
技術そのもの以上に、『自分のデザインを他者に届けるための言語とロジック』を学んだことです。
海外では、どれだけ素晴らしい形を作っても、その背景にある意図を論理的に説明できなければ評価されません。自分の感覚だけで突っ走るのではなく、素材の特性を深く理解し、どういう文脈で提案すれば相手に驚きと感動を与えられるか。その『設計図の描き方』を徹底的に鍛えられたのが、僕にとっての留学生活でした。
また、当時は休みを利用してヨーロッパを貧乏旅行しながら、各地の市場調査もしていたんです。その時、色々なリアルなものを見て回る中で、『このレベルなら、自分も世界で戦えるな』という根拠のない自信がなぜか湧いてきたんですよね(笑)
――すごく自信があったんですねぇ。
帰国した時が27歳。ここからどこかのアパレル企業に入って数年下積みをして、30歳を過ぎてからブランドを始めるのでは遅すぎる、という危機感がありました。だからとにかく早く始めたかった。資金を借り集め、東京の日暮里の問屋街でいろんな残端(生地の残り)を安く買い集めては、自分でパターンを引いて、自分で縫う。勢いだけでデビューしました。
――ブランド立ち上げ当初は、自信のとおり、順調だったのでしょうか?
それが、最初の3年間は全然売れなくて、ビジネスとしては全く成り立っていませんでした。当時は朝から晩まで仕事をして、夜中から明け方まで一人でパターンを引き、3時間だけ寝てまた朝が来る、みたいな無茶苦茶な生活をしていましたね(笑)。
――3年間も全く売れなくて大変でしたね!よく継続できましたね!
はい。本当に、もうブランドを畳まなければいけないんじゃないかという、一番苦しかった時期でした。そんな時、ロンドンで開催される世界的なコンテスト『ウールマーク・プライズ』に挑戦したんです。そのコンテストには『ウール素材を必須で使用する』という大きな課題がありました。
――そこで、地元の美濃・尾州にある「マテリアルセンター」へ駆け込まれたわけですね。
そうです。まさにマテリアルセンターは『駆け込み寺』でした。当時は資金も全くなかったので、藁にもすがる思いでマテリアルセンターへ向かいました。膨大な生地資料が並ぶあの場所で、僕は過去の資料を必死に漁りました。そこで運命的に出会ったのが、僕が生まれた1980年代後半のバブル期に作られた、古いサマーウールの生地です。
――その素材を選んだのには、どのような意図があったのですか?
それまでの僕は、ネオプレーンやビニールのような工業用素材を使って、SF的で近未来的な彫刻のようなシルエットを作るスタイルが中心でした。でも、マテリアルセンターで見つけたのは、おじいちゃんが着ているような、ちょっと硬くてガリガリした、レトロなウール素材です。 『この自分が作ってきたフューチャーなシルエットに、あえてこの古めかしい素材を掛け合わせたら、誰も見たことのないものができるんじゃないか』——。そう直感しました。実際、コンテストでは、審査員の方々にもその独創的なアプローチを評価していただき、結果、アジア予選を突破し、ファイナリストに選出されたのです。
――マテリアルセンターでの素材との出会いが、大野さんのデザインを躍進させたのですね!
そうです。結果として賞こそ逃しましたが、アジア予選通過に伴う約500万円の資金サポートが入ったことで、ブランドは奇跡的に息を吹き返しました。あの時、マテリアルセンターに出会えたのは、まさに『神のご加護』でした。
これをきっかけに天然素材の持つ魅力に気づき、突拍子もない未来ではなく、日常の尺度をちょっとだけ揺さぶるような「半歩先」のデザインを目指すようになりました。ラグビーボールの形をした立体的なスカートや、車のフロントを模したデザインなど、自分の原風景である「ニュータウンの量産型の景色」やエモーショナルな記憶を服に落とし込むようになったのも、この頃からです。
――その後、展開はどうだったんですか?
6年目くらいに、日本の「冠婚葬祭でみんなが黒いドレスを着る文化」って面白いなとふと思ったんです。そこで、フォーマルで上質な素材を使いつつ、自分のデザインを落とし込んだブラックドレス(オケージョンドレス)を8タイプ作って発表しました。
これが、結婚式やパーティーでおしゃれな服を着たいという30代くらいの女性のニーズに見事に合致して、初めて「売れるってこういうことか!」という感覚を味わいました。そこから百貨店やセレクトショップとの取引が一気に広がり、ビジネスとして黒字化させることができるようになりました。

――10周年を迎え、現在、そしてこれからのファッションについてどう考えていますか?
正直なところ、いまのファッション業界の「大量に作って、大量に売る」という構造や、インバウンドの観光客をターゲットにして身の丈に合わないラグジュアリーブランドを目指すようなことには行き詰まりと矛盾を感じています。女性の消費を見ても、いまは服をたくさん買うより、美容にお金をかけて自分自身を綺麗にする方が現実的だし、豊かだと感じているように見えます。
だからこそ、僕はもっと「矛盾のないモノづくり」をしていきたい。
例えば、いまコンペなどで積極的に関わっている企業の「ユニフォーム」のデザイン。環境に配慮した循環型素材を使い、社員が快適に、誇りを持って働けるようにデザインすることは、時代の価値観とも合致していて全く矛盾がない。ファッションデザイナーの仕事は、単に高い服を作ることではなく、「その時代を生きる人間の感覚や気持ちに寄り添って、新しい提案をすること」。また、今後は衣服の枠を超えて、インテリアやプロダクト、人の生活に関わる広い意味でのデザインへ、自分の表現を拡張していきたいと思っています。
――最後に、これからファッションやデザインの道を志す学生たちへメッセージをお願いします。
「良いファッションデザイナーの定義って何ですか?」と聞かれて、明確に答えられる人って意外と少ないと思うんです。センスや感覚だと思われがちですが、僕は1つだけ、はっきりと定義できるものがあります。
それは「素材の扱い方」です。
このデザインにはどんな素材が合うのか。あるいは、その素材が持つイメージを良い意味で裏切るには、どうやって形にすればいいのか。それは、センスではなく、どれだけ多くの素材に触れて、実際に切って、縫って、形にしてきたかという「努力」の先でしか身につきません。これこそが、デザイナーにとっての「筋トレ」です。
マテリアルセンターのように、世界最高峰の生地資料がこれほど網羅されている場所は、海外の有名なファッションスクールの周辺を探しても他にありません。若い皆さんには、ぜひこの恵まれた環境をフルに活用して、たくさんの素材に触れ、自分の手を動かして、自分だけの『素材の扱い方』を身につけていってほしいなと思います。

――岐阜への移住計画があると伺っているのですが、具体的にはどのようなお考えなのでしょうか?
最近仕事でよく岐阜に来るんですが、長良川周辺の自然や、古い伝統が大切に守られている空気感がすごく好きなんです。本当に結構真剣に考えていて、5年以内くらいには、長良川の近くの町家かどこかにアトリエを移住させたいなと物件を探しています。
ファッションという華やかな世界にいますが、僕は『庶民で良かったな』って今はすごく思うんですよ。わざわざ華やかなラグジュアリーの世界にいなくても、落ち着いた場所で過ごして、長良川の近くを散歩しているだけで、それが一番豊かだなって思えるんです。自分が本当に心地よいと感じる場所で、これからのデザインを広げていきたいと思っています。
お話お聞かせいただきまして、ありがとうございました!今後も大野さんのご活躍を応援しています!ぜひ岐阜で、アトリエを開いてくださいね。お待ちしています♪
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